孤独と孤高の狭間で~男の自画像

40代の男。責任と孤独感ばかりが増える年代の、 仕事や家庭の中での出来事、世の中に対して言いたい 「独り言」。

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坂本龍馬暗殺~犯人は?

大河「龍馬伝」、ますます楽しくなってきている
この作品での龍馬暗殺の犯人、黒幕は誰だろう?
まずは
①新選組説
残された履物が新選組行きつけの料亭の物であったこと、
現場に残された刀の鞘が原田左之助の物だと、新選組から
分離した御陵衛士の伊東甲子太郎証言されたこと、また
中岡慎太郎らの証言から、刺客は襲撃時に
「こなくそっ!」と叫んでいること
(こなくそ…は伊予の国訛りで原田は伊予松前藩の出身)
など、あまりに出来すぎていないだろうか?
※後に、新選組 大石鍬次郎が龍馬暗殺の疑いで捕縛され、
拷問の末自らが龍馬を暗殺したと自白したが、後に撤回している

②京都見廻組説
箱館戦争で降伏し捕虜になった元見廻組隊士・今井信郎が、同見回組・
佐々木只三郎とその部下6人が坂本龍馬を殺害したと供述しており、
これが現在では定説になっている
しかし、供述と中岡慎太郎らの証言に食い違いが多い
例えば太刀の手数と斬り付けた箇所が全く違う、刺客の人数が
違うなど

③土佐藩説
龍馬は、幕府が薩長による武力討伐を避けるには幕府が天皇に政権を返上するしかないと
考え土佐藩・後藤象二郎に提案
後藤はそれを土佐藩主・山内容堂に説き、土佐藩から幕府へ建白するように働きかけた
このため後藤は土佐藩内でこの功績により150石の身分から1500石に大出世
さらに土佐藩参政という重要ポストに抜擢された
中岡の証言で、犯人は「こなくそ」とあるが、「こなくそ」とは伊予(四国・現愛媛県)
の方言で「この野郎」という意
上士の後藤と、郷士の龍馬を考えれば分からなくもないが、私が後藤なら龍馬を従え
もっと出世する道を選ぶと思う
そうすると、土佐藩説の場合黒幕は他にいるのでは?

④薩摩藩説
あくまで武力での倒幕を目指す薩摩にとって、平和路線でしかも慶喜を新政府に参加させ
ようとする龍馬は、薩摩・長州から見てすでに邪魔なだけの存在ではなかったか?
龍馬が襲われた際の「こなくそ」は、薩摩弁の「こげんくそ」の聞き間違いであったの
では?


諸説ある中で、私が一番怪しいと思うのは④の薩摩藩説だ
①、②はいずれも幕臣であり大政奉還でその身を救われた
徳川慶喜が、しかも新政府に慶喜を参加させようとしていた龍馬
暗殺を許すとは思えない
殺害場所に刀の鞘と下駄が置いてあり、これが新選組ゆかりのもの
である事も出き過ぎであろう
また当時薩摩藩にべったりだった高台寺党(元新選組・伊藤甲子太郎)
が、刀の鞘を左之助のだと証言しているのも、キナ臭い
そして、幕臣はもとより新政府の助命嘆願を無視しカタチで薩摩藩士
により近藤勇が斬首とされた事も繋がりが見える。
3は、大政奉還を成し遂げた土佐藩にとって龍馬は邪魔な存在となる
理由が薄く感じる

武力での倒幕なら長州藩も思いは一緒だったと思う
しかし、何より龍馬を襲った刺客の太刀筋が示現流の様に思えて
ならない

「龍馬伝」では、どう描かれるのか楽しみである
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テーマ:龍馬伝 - ジャンル:テレビ・ラジオ

  1. 2010/05/21(金) 19:13:39|
  2. 歴史浪漫
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稀代の策士 保科正之

ちょっと重たい話題が続いたのでここらで力を抜いて。

保科正之の事を書いてみたい。

徳川2代将軍秀忠の正室はかなり嫉妬深く、秀忠が他の
女性と通じるのをひどく嫌ったらしい。
そんな中、ただひとり通じた女性がいた。それが正之の
母・志津である。
嫉妬深いお江与の方の目をかいくぐる為、幼少の頃は
武田信玄の娘・見性院に育てられ、武田幸松と名乗った。
しかし、そこは尼寺であった為に将軍家の子息を育てる
為に必要な武術や武士の心得を教える事ができない。
そこで見性院は父・信玄に使え、今尚自分を主君の娘と
して訪ねてくれる保科正光に預ける事にした。
保科は高遠藩5万石の藩主であった。

秀忠の子・家光をめぐるお家騒動は「大奥~第一章」で
あった通りだが、実の母や弟に愛されなかった家光は、
血の繋がったもう一人の弟への思いを寄せた。
兄・家光の思いだけで感激した正之は、心底から家光に
使えた。
父・秀忠が親子の名乗りをしなかったので、影から
徳川家を支えていく事に終始した。
実は徳川家臣の間では、正之が家光の腹違いの弟である
事は筒抜けであったが、末席に座り決して家光との血の
繋がりを口にする事はなかった。
家光には「葵の御紋」の使用を許可されても使わず、家光
の死後、幼総軍・家綱の後見人として、家綱に代わり善政
を行った。家綱三大美事である大名末期養子禁止の緩和
(大名が後継者を用意せずに亡くなった場合、お家断絶で
あったが、その死後に養子を迎える事を許した。)、殉死
の禁止(殿を亡くした家臣が後追い自殺をし、藩の要職に
ある人材を亡くす事を禁じた)、大名人質制度の廃止は
全て正之の発案で行ったもので、幼い将軍に対し、各藩の
大名達が尊敬される事を基本とした政策である。
他にも島流しをされた罪人への食事の提供、江戸の火災
後の復興等、数え上げるとキリがない。
その全てを江戸に詰めた状態で行い、国許の会津には20年
以上、帰らなかった。
その間に、数人の息子、娘を亡くし、家綱には亡くした
息子の面影を重ねる事もあったそうだ。
国許の会津は家老に任せたが、やはりここでも善政をひいた。
天候による凶作などで、食えない農民を助ける為のシステム
社倉制度作りをし、困った農民に米を貸し出した。
90歳を超える人材は国(会津)の宝とし、生きる限りの食い
扶持を保障した。現在の社会保障制度にあたる。
また、親孝行を奨励し、親孝行者は表彰し、これにも米を
与えた。

晩年、会津へ帰った正之は、社倉を見て歩き、90歳以上の
老人宅を全て回り、手を握って長寿を願ったそうだ。
この時、病のため正之の目はほとんど失明同然だった。
また、家綱に仕えて行った政道の資料を全て焼却している。
「ご政道は全て上様がなさった事。だからそこにわしの足跡が
残ってはまずいのじゃ。」
という言葉に、家臣は目頭を熱くしたそうだ。
稀代の策士と書いたのは、歴史上で有名な軍師の意味ではない。
あくまでも将軍の補佐として、日陰に身をおき、民の為の政治
に徹した保科正之こそ、将軍・家綱を育て上げ世間に認めさせ
た策士であると思う。
私を捨て、公に生きた本当の政治家である。

余談ではあるが、この保科正之が松平・会津の初代党首であり、
子孫に残した家訓にも徳川家への忠誠を第一と教え、徳川に
反するものがでればそれは我が子孫ではないから、その様な
者に家臣たちも仕えてはならぬ、とまで言っている。
9代目党首が松平容保であり、新選組を召抱え、最後まで
幕府軍として、会津の民まで新政府軍と戦い続けた。

新選組好きの私にとって、会津藩主とその祖先。
今年こそは会津へ行き、容保公の墓前に膝をついてくるつもり
である。
  1. 2005/10/05(水) 03:36:32|
  2. 歴史浪漫
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河上彦斎

歴史が好きだ。特に幕末の話は読んでいて考えさせ
られるものがある。誰もが憂国の志士であり、真面目に
国の事を思い、命をなげうった時代である。
選挙ひとつとっても、「自分には関係ない」と投票にも
いかず、斜めから世間を見ている現代人との差はいかが
なものか?

一昨年話題になった大河ドラマ「新選組!」も幕末に
駆け抜けた尊攘佐幕派であった。
同じ目的を持つ日本人同士が、倒幕か佐幕かで血を
流した悲しくも勇ましい話であると理解している。


最初に、紹介したいのが“河上彦斎”(かわかみげんさい)
である。昔、少年ジャンプというマンガに連載されていた
「るろうに剣心」のモデルとしても有名。

幕末に恐れられた人斬り達、特に四天王と呼ばれる4人の
剣客が佐幕派のみならず倒幕派からも恐れられた。
土佐の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛、中村半次郎、そして
河上彦斎である。

天保5年11月25日(1834年12月25日)、小森貞助の
四男として熊本県の城下に生まれる。10歳で父と、16歳で
母と死別し河上源兵衛の養子となる。
同時に細川藩別宅の掃除坊主となり、剃髪。

人斬りの多くは貧しく、身分も低く、教養がないのが特徴
であるが、彼は異例で文字、皇学、兵法、儒学、国学を
細川藩屈指の人物を師と仰ぎ学んだ。
(ちなみに兵法の師は、新選組が池田屋事件で討ち取った
宮部鼎蔵である)
中でも皇学は、後に熊本新風連の宗師と仰がれる“林桜円”
の門に入り天皇絶対主義を実につけた。
武術は教わっておらず独学であったといい、片手打ちを
得意としていた。

当時、日本最高の知識人と呼び名の高い“佐久間象山”
(勝海舟の妹を妻とする…だったと思う)を斬ったのは
彼である。
四大人斬り、人斬り四天王などと呼ばれながら、彦斎の
暗殺はこの象山しか判明していない。

明治維新後、彦斎の目指した天皇親政とは名ばかりの
三条実美ら数名の公家と薩長による“薩長幕府”に
深い絶望を味わった。これは昨日までの同士の裏切り
に他ならなかった。
彦斎の反政府的動向に肝を冷やした肥後藩丁は、彦斎
を鶴崎の駐屯地に送り厄介払いをした。
そこで彦際は有終館という道場を作り、駐屯地の兵の
文武の修行をさせていた。
謀反の企てというあらぬ疑いをかけられ、東京・小伝馬
町に護送後、西郷隆盛の奔走虚しく、木戸孝允(桂小五
郎)の命にて処刑された。

自ら剣を置いた人斬りも彦斎のみである。
幕末の動乱期から明治維新後まで、一貫して憂国の志士
であった新政府側の人間の数少ないひとりだと思える。
  1. 2005/09/16(金) 02:18:54|
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プロフィール

メフィスト

Author:メフィスト
ちょっと頑固な親父の奇弁・熱弁と悲しい愚痴。
お酒や肴の話や、わずかな趣味、そして女性の話も少し…。
個人の胸の内を日記風に書きます。
個人の意見です。敬称略、毒舌もご了承ください。

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